氷上で絶対的な信頼を得る兄と、その最大の理解者である弟。カーリングの両角兄弟は、幼少期から互いに切磋琢磨しながら、日本トップレベルまで駆け上がってきた。
始まりは1998年の長野五輪だった。軽井沢町出身の2人は、大会のボランティアを務めていた母親についていく形で、カーリングの試合会場に足を運んだ。当時、中学1年だった兄の友佑は「ルールは全く分からなかった。日本が勝ったという記憶くらいしかない」と振り返る。長野五輪をきっかけに、軽井沢町ではカーリングが普及。その勢いに乗る形で、両角兄弟のキャリアがスタートした。
カーリングに打ち込む兄に対し、弟の公佑はバレーボールやアルティメットなど、多様なスポーツに触れながら育った。その後、2人はSC軽井沢クラブでチームメイトになると、日本カーリング選手権大会5連覇を経験。両角兄弟の名は広く知れ渡った。そして、2019年5月にはTM軽井沢を結成。TMとは「Team MOROZUMI」を意味する。
学生時代から互いを高め合ってきたことに違いはない。しかし、兄弟でプレーしていて良かった点について伺うと、友佑は「特にない」と断言する。一方で公佑は「僕のリードというポジションは、一番最初に投げてしまうので、スポットライトが当たりづらい。兄はスキップで最後に投げるので、試合を決める役割。僕にとって、兄弟で一緒に取り上げてもらえるのはラッキーだった」と笑みをこぼした。
2人はTM軽井沢を立ち上げ、さらにアクセルを踏み出した。海外での合宿などを経て、チームの強化は順調に進んだが、昨年3月頃から新型コロナウイルスが流行。ブレーキを踏まざるを得なくなった。「それまでは(本場・)カナダで毎週末に大会があって、現地で経験を積むのが大事なルーティンだった。長いキャリアの中で、丸一年カナダに行けなかったのは昨年が初めて」と、友佑は当時の葛藤を思い返す。
未曾有の危機に瀕したが、マイナスばかりではない。友佑は、もともと好きだった料理に精を出し、レパートリーを増やした。家事の意味合いが大きかったが、アスリートとしてのコンディショニングにもプラスに働いたという。また、自身がコーチを務める女子チーム・中部電力の選手やスタッフとともに、「毎月100km走る」という目標を掲げ、持久形のトレーニングに励んだ。
公佑もランニングに重きを置き、「過去20年くらいで一番走った年」を過ごしたとのことだ。また、競技面においても「(カーリング選手権大会王者の)コンサドーレさんと話して、エキシビションマッチや合宿を進めていった。選手同士で工夫して、日本のカーリングが強くなるための方法を考えられた」と前向きに捉えている。
カーリングの強化に向けては、後進の育成も重要だ。長野県には軽井沢アイスパーク(軽井沢町)、カーリングパークみよた(御代田町)と、専用リンクが2つある。両施設とも東信エリアに固まっており、県全体に普及するのは容易ではない。友佑は指導者として「専用リンクに通えないと、続けるのは難しい。どうしても地域の子どもたちに限定されてしまう」と、もどかしさを明かす。
子どもたちには多くの選択肢がある。プロスポーツクラブがひしめき合う長野で、カーリングに触れてもらうには、 両角兄弟の活躍も欠かせないだろう。松本山雅FCのサポーターでもある公佑は、「夏はサッカーを応援して、冬はカーリングを応援するという方も出てきている。軽井沢には日本トップレベルのチームがいるので、切磋琢磨しながら冬の長野も盛り上げていきたい」と語気を強める。
TM軽井沢の飛躍には、何が必要なのか。この問いに対して、公佑は「兄についていけば良い」と、友佑への絶対的な信頼を挙げた。
「兄はスキップとして日本一の選手だと思っている。僕らの仕事は、いかに彼の負担を減らして、調子を上げてもらうか。両角友佑が長く現役を続けることは、日本カーリング界のためにもなる」
それを受けて友佑も、「僕は自分のやりたいカーリングが決まっていて、あまり周りのことが気にならない。協調性はないが、そこは弟がカバーしてくれている」と、自分の足りない部分を認めつつ、公佑への信頼を口にする。
この兄弟は、良い意味で似ていない。人付き合いが苦手な兄と、社交的な弟。カーリングばかりを見ている友佑と、多くの趣味がある公佑。「弟は顔が広い」「兄は淡々と努力し続けられる」と、2人は恥じらいながら褒め合う。考え方が異なるからこそ、互いの弱点を補い合えるのかもしれない。
今年の日本カーリング選手権で、チームは3位に入賞。惜しくも決勝進出は逃したが、結成から約2年で健闘を見せた。2022年の北京五輪はすでに出場チームが決まっており、26年のミラノ五輪への出場を目指す。彼らの活躍が長野だけでなく、日本のカーリング熱に火をつけることを期待したい。
<取材/田中紘夢>