パラスポーツ

活発な少女が取り戻した、走る喜び。車いす陸上・井澤薫実

 「毎日走るようなタイプだったので、本当に受け入れられませんでした」。幼少期にはダンスや水泳に励んでいた井澤薫実さん(いざわゆきみ・信州大学医学部6年)。走ることが大好きで、陸上部を志望していたが、中学には陸上部がなかったという。それでも吹奏楽部に所属しながら、市内のマラソン大会に出場するなど、活発な少女だった。

 しかし、中学2年で末梢神経障害を患い、手足の筋力が低下。2本杖と車椅子での生活を余儀なくされる。大好きなスポーツに打ち込めないショックはあったものの、「体が動かせないなら勉強するしかない」と割り切り、当初想定していたよりもワンランク上の高校を目指した。

 その後は地元・愛知の高校に進学し、勉学に勤しむ。病院でお世話になった先生に憧れ、卒業後は信州大学医学部に進学することとなった。

 とはいえ、華やかなキャンパスライフとは程遠かった。周りの大学生が活発に動く中で、井澤さんは障がいに苦しむ。病院はバリアフリー化が進んでいるが、一歩外に出れば壁にぶつかった。

 「病院の外での生活にすごく困りました。街は段差だらけで、電車の乗り方も分からなければ、バスには乗車拒否される。家にいても、卵すら割れないので料理ができない。わけが分からなくなって、外出しなくなったんです」

 気分転換もままならない中で、自身を肯定するきっかけとなったのは、パラスポーツとの出会いだった。大学1年で障がい者向けの体育の授業を受けると、講師が車いすバスケットボール部の顧問であることを知る。最初は「できないだろう」と思っていたが、体験入部した際に感じたのは、またスポーツができる喜びだった。

 大学2年で車いすバスケットボールを始めると、世界が広がった。次第に握力も回復し、幼少期のようにスポーツを楽しむ日々。部員は健常者ばかりだが、外部のチームと練習や試合を重ねる中で、障がい者同士の交流も生まれた。

 「最初は障がい者とスポーツがあまり結びつかなくて、運動しないのが当たり前だと思っていました。スポーツは気分転換になるし、人生の選択肢も増えたので前向きになれて、今のままでも良いと感じるようになりました」。障がいを完全に受け入れることはできなくても、前向きに捉えられる瞬間がある。本人は「落ち込む頻度が減った」と口にしており、パラスポーツが日常生活にも好影響を与えた。

 大学4年の夏からは医学部の実習が始まった。部活動への参加が難しくなり、車いすバスケットボールの道を離れる。だがスポーツへの意欲は収まらず、新たに車いす陸上を始めた。指導者はいないが、個人練習や、県内で車いす陸上に励む人々との合同練習を楽しむ。部活動のように時間が決まっていないため、実習との両立も問題ない。しかし、個人競技ゆえにモチベーションの維持が必要だった。

「自分との戦いのようなところがあります。部活はみんなでやっているから、きつくても頑張ろうと思えますが、一人だと負荷をかけるのが難しくて。記録をつけたり、目標を設定したりすることで、意識を高めています」

 車いす陸上を始めた直後、新型コロナの壁にぶつかった。毎年4月に行なわれる車いすマラソン大会や、9月の障がい者スポーツ大会が相次いで中止。仮に開催されたとしても、病院で実習を行う医学生として参加は困難だった。大会に出られない現在は種目を絞らずに練習に打ち込むが、まずは短距離走からの出場を目指しているという。いつ訪れるか分からないチャンスに向けて、自分との戦いを続けている最中だ。

 今夏には東京パラリンピックの開催が予定されている。バリアフリーの推進や障がい者への理解なども期待されるが、医学生である彼女は、コロナ禍での開催に複雑な心境を明かす。「パラスポーツをやっている身として、世界中から選手が来るのを見たい気持ちはあります。ただ、医学生でもあるので、コロナのことを考えると不安なんです」。

 とはいえ、「パラスポーツが身近になるきっかけになってほしい」と希望も抱いている。車いす陸上で言えば、専用の車いすの購入(1台で数10万〜数100万)や、練習場所の確保などのハードルがある。また、パラスポーツ全体を見ても「健常者スポーツと比べ、特別感が出てしまっている」。パラリンピック開催によって各競技が身近になれば、パラスポーツに救われる障がい者が増えるかもしれない。

 現在は医学部の最終学年。医師になるのが第一だが、本人は「就職しても走り続けたい」と車いす陸上の両立にも前向きだ。彼女には70歳の師匠がおり、その存在も刺激になっているという。車いす陸上はライフワークで、「体を動かすのが好き」という純粋な気持ちを体現できる。目標はフルマラソンの完走。車いすで疾走する先には、無限の可能性が広がっている。